「ファンは、いてもいなくてもいい存在かもしれない」
このように考えることがあります。
それは冷たい意味ではなく、「推しを思っていればこそ」の言葉です。
一見ビックリするような言葉ですが、その意味を少しお話します。
推しとの関係や、ファンとしての立ち位置に悩む方に届くと嬉しいです。
「支える」という言葉の手前で
推しを「支えたい」という言葉は、
ファンの側の目線だと思います。
ファンが束になって、みんなで気持ちを合わせて「支えたい」というのはできそうな気がしますね。
応援している私たち一人ひとりの顔が届かなくても、
「今日も見てますよ」と、画面越しに応援するのはできます。
ネット上での反応や視聴者数の大きさから、推し自身が「ファンの存在」を認識することでしょう。
ステージの上の人をファン一人で支えることはちょっと難しいかなと思うところです。
ファン一人一人の顔などをわかってもらうのも、同じようにハードルが高いのかもしれません。
ファンの喜びは、「認知してもらうこと」ではなく、
ファンという「集団の存在」を推しにわかってもらうことにあるように思います。
推しから見たファンの立ち位置
推しの立場からファンを見ると、
ファンは「いてもいなくてもいい存在」なのかもしれない
・・と自虐的ですがこんなことを思いました。
推しのお仕事としては、ファンは「いた方がいい存在」ですよね、きっと。
けれども、人としての関係という意味では、
「いてもいなくてもいい存在」に近いのかなと思っています。
仲良くなりたい、お友達になりたいと思う方には申し訳ありません!
昔ガチ恋勢だった私より。
ファンの存在は、推しの仕事にとっては必要で大切。
でも、対等な人間関係の土俵にファンが上がれるのかというと、上がることはできないかなと考えます。
推しに近づく「権利」は、私たちファンには与えられていないと思っているところです。
ただ、その一線をわきまえているからこそ、推しが安心して輝けるのかなと思うのです。
私たちの日常でも、知らないような人が友人のような顔をして知人のように近づいてきたら、ちょっと困惑しますからね。
自然な応援をするからこそ、安心して推しが輝き、その姿をファンが遠くから見つめることができます。
そうすれば、ファンは静かに喜びを感じていられます。
推しからは、「力をいただく」だけのこと。
ファンとしての私からは、「ありがとう」「素敵ですね」「応援してます」を伝えるだけのこと。
それ以上でも、それ以下でもないのが「推しとファン」なのだと思っています。
ファンは、推しの友人ではありません。
けれども、その届かない位置に立つからこそ、
安心して好きでいられる——
それが、ファンという立場なのですよね。
仮に推しが近くにいるとしたら、どんなに緊張して、気を遣い、お金を遣うことになるだろうと妄想します。
遠くだから安心なのです。
「ほんの少しお邪魔します」という距離で
ファンというのは、
「ほんの少しお邪魔します」と言える人なのかもしれませんね。
ステージを、会場の隅で、息を潜めながら「見ている」ことに喜びを感じることがありますよね。
「応援ありがとう」と言ってもらえても、
それはきっと、たくさんのファンに向けた言葉。
その中の一人として、その場の空気に「ほんの少しお邪魔できた」と思えたら、嬉しくて、温かい気持ちになります。
ファンからの応援はお届けするだけ。
お邪魔にならないように。
それでも、応援の気持ちをを丁寧に届けられたら、それが大きな幸せです。
ファンという存在の在り方は、このような距離感なのだと思います。
遠くから見守ることも、実は大きな応援のひとつ。
その大きな応援が届くと信じて、これからも好きでいられたらいいなと思います。
まとめ
推しから見れば、ファンはたくさんいます。
その中の一人ひとりをわかってもらうのは難しいことです。
「いてもいなくてもいい」という推しとの距離を受け入れながら、
これからも穏やかに、
心の中で「推しを見守るファン」でいたいと思います。
考えを書いてみると、
少し冷たく感じるかもしれません。
けれども、私にとって推しとの距離は、
「近づきすぎない優しさのプレゼント」のようなものです。
勝手に考えをまとめてしまいましたが、
もし同じように感じたことがある方がいたら、
心の片隅でそっと共感してもらえたら嬉しいです。
こちらにも推しへの気持ちを書いています。



